Masuk2-1 偶然という名の必然
土曜の誤配達から三日が経った。
その間、涼介は一度も奏と顔を合わせていない。それにもかかわらず、隣室の存在は以前より遥かに重く、涼介の意識を占めるようになっていた。
廊下を歩くたびに四〇三号室のドアを見てしまう。エレベーターが開くたびに、中に誰がいるのか確認してしまう。自分の部屋にいても、壁の向こうから物音がするたびに耳を傾けてしまう。まるで思春期の少年のようだと、涼介は自嘲した。二十八にもなって、隣人の気配一つに心を乱されている。
あの日、奏の部屋でお茶を飲みながら話した時間が、涼介の頭から離れなかった。配信ブースを見せてもらい、「KANA」という配信者名を教えてもらった。奏の声を、壁越しではなく直接聴いた。その声は、配信で聴くよりもずっと近くて、ずっと甘かった。耳のすぐそばで囁かれているような錯覚を覚える。鼓膜を震わせるだけでなく、胸の奥まで染み込んでくるような響きだった。
あの声の持ち主が、壁一枚向こうに住んでいる。その事実だけで、涼介の心は落ち着かなかった。
水曜日の朝だった。
出勤前、ゴミを持って部屋を出た涼介は、廊下の先に見覚えのある後ろ姿を見つけて足を止めた。
焦げ茶のセミロングが揺れている。奏だ。同じようにゴミ袋を手にしている。
涼介の心臓が跳ねた。声をかけるべきか。いや、不自然だ。同じマンションに住んでいるだけの隣人に、わざわざ声をかける必要はない。そう思いながらも、足は自然と奏の方へ向かっていた。
「おはようございます」
声をかけたのは奏の方だった。振り返った顔に、穏やかな笑みが浮かんでいる。その声は、朝の静けさの中で透き通るように響いた。低すぎず、高すぎず、どこか心地よい周波数。聴覚の鋭い涼介には、その声の輪郭がはっきりと感じ取れた。
「あ……おはようございます」
涼介は慌てて頭を下げた。会いたいと思っていたくせに、いざ目の前にすると緊張で言葉が出てこない。
「ゴミ出しですか?」
「ええ、まあ」
当たり前のことを聞かれて、当たり前のことしか答えられない。涼介は自分の語彙の乏しさに苛立った。
二人は並んでゴミ集積所へ向かった。朝七時過ぎ、通勤前の住人がちらほらとマンションを出ていく時間帯だ。六月の朝の空気はまだひんやりとしていて、薄手のシャツ一枚では少し肌寒い。
「黒川さんは、お仕事早いんですね」
奏が横目でこちらを見ながら言った。「黒川さん」と呼ばれたことに、涼介の胸が小さく震えた。名字で呼ばれているだけなのに、なぜかこんなにも嬉しいのか。
「八時には会社に着いていたいので」
「真面目なんですね」
「そうでもないですよ」
嘘だ。真面目だから、こんな時間にゴミを出しているのだ。帰宅が深夜になることが多い涼介にとって、朝のゴミ出しは数少ない生活感のある行動だった。
ゴミ集積所で袋を置き、涼介はマンションに戻ろうとした。その時、奏が小さな声を上げた。
「あ、手、切ってる」
「え?」
涼介は自分の手を見下ろした。右手の人差し指に、いつの間にか小さな切り傷ができている。おそらくゴミを縛る時に、ビニールテープの端で切ったのだろう。血は出ていないが、皮膚が白く裂けている。
「大丈夫ですか?」
奏が心配そうな顔で涼介の手を覗き込む。その距離の近さに、涼介の心拍数が上がった。シャンプーとは違う、柔らかな香りがほのかに漂う。石鹸の清潔な匂いに、何か甘い香りが混じっている。
「大したことないです」
「でも、ばい菌が入ったら大変ですよ。うち、絆創膏あるから持ってきましょうか」
「いえ、そこまでしてもらわなくても」
「すぐですから」
奏は涼介の返事を待たず、軽い足取りでマンションの入り口へ向かっていった。
取り残された涼介は、自分の指を見つめた。こんな些細な傷のために、奏が自分の部屋に戻ってくれている。それだけのことなのに、胸の奥がじわりと温かくなる。
誰かに気にかけてもらえるのは、いつ以来だろう。職場では常に気を張り、プライベートでは誰とも深く関わらない生活を続けてきた。心配されることも、世話を焼かれることも、涼介にはほとんど縁のないことだった。ゲイであることを隠し、本当の自分を見せられる相手がいない。そんな孤独な日々の中で、奏の何気ない気遣いは、涼介の心に深く染み込んだ。
三分もしないうちに、奏が戻ってきた。
「はい、どうぞ」
差し出されたのは、キャラクターものの絆創膏だった。丸っこい猫のイラストが描かれている。
「……可愛いですね」
「あはは、これしかなくて。恥ずかしいですか?」
「いえ」
涼介は首を横に振った。恥ずかしいどころか、なんだか嬉しかった。奏の日常の一部を垣間見たような気がして。こんな可愛らしい絆創膏を使う人なのだ。配信で聴く艶めいた声の主が、猫のイラストの絆創膏を持っている。そのギャップが、涼介の胸をくすぐった。
「貼りますね」
奏は当然のように涼介の手を取った。細い指が、涼介の指に触れる。その瞬間、涼介の思考が一瞬停止した。
温かい。奏の指は、思っていたよりずっと温かかった。
丁寧な手つきで絆創膏を貼られる間、涼介は息をするのも忘れていた。触れ合う肌の感触も、耳の奥でざわめく血流の音も、すべてが異様に鮮明に感じられる。奏の指が自分の指に触れている。それだけのことが、涼介の全神経を集中させていた。
「はい、できました」
奏が顔を上げて笑った。その笑顔を間近で見て、涼介の心臓が大きく跳ねた。整った顔立ち、少し上がった口角、優しく細められた目。その目に、涼介はまっすぐに見つめられていた。
「……ありがとうございます」
「いえいえ。じゃあ、お仕事頑張ってくださいね」
奏はひらひらと手を振って、自分の部屋へ戻っていった。涼介はその後ろ姿を見送りながら、絆創膏の貼られた指を見下ろした。
可愛らしい猫のイラストが、傷を覆っている。その指に、まだ奏の体温が残っている気がした。指先がじんわりと熱い。その熱が、腕を伝って心臓まで届くような気がした。
*
それから、奏との「偶然」が続いた。
木曜日の夜。残業を終えて帰宅した涼介は、マンションのエントランスで奏と出くわした。奏は郵便受けを覗いているところだった。
「あ、黒川さん。お疲れ様です」
その声が、夜の静けさの中で柔らかく響いた。
「お疲れ様です」
「今日も遅かったんですね。大変ですね。」
奏の言葉には、労わりが込められていた。その優しさに、涼介は強張っていた肩から力が抜けていくのを感じた。
金曜日の夜。残業を終えて帰宅した涼介は、エレベーターホールで奏と鉢合わせた。
「あれ、黒川さん。お帰りなさい」
奏はコンビニの袋を手にしていた。缶ビールとスナック菓子が見えている。
「ただいま……じゃなくて、お疲れ様です」
思わず口をついて出た言葉に、涼介は内心焦った。「ただいま」なんて、まるで家族か恋人に言うような言葉だ。
「ふふ、ただいま、でいいですよ。帰ってきたんですから」
奏は気にした様子もなく笑った。その笑い声もまた、心地よい響きだった。低すぎず、明るすぎず、どこか包み込むような音色だった。その声を聴くと、一日の疲れが少しだけ和らぐ気がした。
エレベーターを待つ間、沈黙が流れた。涼介は何か話題を探したが、疲れ切った頭では気の利いたことが何も浮かばない。
「お仕事、大変そうですね」
先に口を開いたのは奏だった。
「いつも遅いから。帰りの足音、だいたい日付が変わってからだから」
「……聞こえてますか」
「うん。でも迷惑とかじゃないですよ。むしろ、ああ、帰ってきたんだなって、ちょっと安心するくらい」
安心する。その言葉が、涼介の胸に深く染み込んだ。自分の帰宅を、誰かが待っていてくれている。それはここ数年、涼介が忘れかけていた感覚だった。
エレベーターが到着し、二人は並んで乗り込んだ。狭い箱の中、奏の存在がいつもより近く感じられる。閉ざされた空間に、奏の香りが満ちている。
「黒川さん、ちゃんと食べてます?」
「……まあ、それなりには」
「コンビニ弁当ばっかりじゃないですか?」
図星だった。涼介の食生活は、コンビニ弁当とカップ麺でほとんど構成されている。
「今度、一緒にご飯食べましょうよ。僕、料理するの好きなんです」
突然の誘いに、涼介は目を見開いた。
「え、でも、ご迷惑じゃ……」
「迷惑なんかじゃないですよ。一人分作るのも二人分作るのも、手間はそんなに変わらないし」
エレベーターが四階に止まり、扉が開いた。奏は先に降りて、振り返った。
「明日の夜、空いてます?」
「明日……」
土曜日。特に予定はない。いつものように部屋に閉じこもり、奏の配信を聴いて過ごすつもりだった。
「よかったら、うちに来てください。腕によりをかけますから」
奏はそう言って、四〇三号室のドアの前に立った。
「じゃあ、また明日」
ドアが閉まる直前、奏がこちらを振り返って微笑んだ。その笑顔が、涼介の網膜に焼き付いた。
こうも頻繁に奏と顔を合わせるのは、偶然なのだろうか。涼介はふと疑問に感じた。毎回、絶妙なタイミングで出会う。まるで、自分の帰宅時間を知っているかのように。
いや、そんなはずはない。考えすぎだ。
涼介は首を振って、その考えを打ち消した。たまたまだ。きっと、たまたま生活のリズムが似ているだけだ。そう自分に言い聞かせた。
*
土曜日。
涼介は午前中から落ち着かなかった。夕食に招待されただけなのに、まるで初めてのデートに向かうかのような緊張感がある。
何を着ていけばいいのか分からない。普段は仕事用のスーツか、休日用のラフな格好しかない。隣人の家に行くのに、スーツでは堅苦しすぎる。かといって、よれよれのTシャツでは失礼だろう。
結局、涼介は紺色のシャツに黒のチノパンという無難な格好を選んだ。鏡で自分の姿を確認して、ふと笑ってしまう。たかが隣人との夕食に、こんなに悩むなんて。
約束の七時、涼介は四〇三号室のインターホンを押した。
「いらっしゃい」
ドアを開けた奏は、エプロン姿だった。白いシャツの上にベージュのエプロンを着けている。その家庭的な姿に、涼介の心臓がまたしても跳ねた。髪は後ろで緩く束ねられていて、細い首筋が見えている。その首筋に、涼介の視線が吸い寄せられた。
「お邪魔します」
「どうぞどうぞ、上がって」
奏の部屋に足を踏み入れるのは、誤配達の日以来、二度目だった。あの日はお茶を飲んで少し話しただけだったが、今日は夕食を共にする。それだけで、涼介の胸は期待と緊張で張り裂けそうだった。
部屋は前と変わらず、温かみのある空間だった。観葉植物が窓際に置かれ、壁には映画のポスターが貼られている。間接照明が柔らかな光を放ち、落ち着いた雰囲気を作り出している。壁際の配信ブースも、相変わらず涼介の部屋との境界に向かって設置されていた。あのブースから、毎晩あの声が発せられている。その場所がすぐそこにあるという事実が、涼介の胸を高鳴らせた。
「座って待ってて。もうすぐできるから」
奏はキッチンに戻り、鍋を覗き込んだ。涼介は言われるままにテーブルの前に座った。
キッチンで料理をする奏の後ろ姿を、涼介は眺めていた。細い背中、エプロンの紐が腰で結ばれている。包丁の音、鍋の煮える音、奏が小さく口ずさむ鼻歌。その音の一つひとつが、涼介の耳に心地よく響いた。
ここが、奏の生活する空間なのだ。前回来た時よりも、その事実が涼介の胸に重く響いた。奏と過ごす時間が増えるごとに、涼介の中で何かが膨らんでいく。それが何なのか、涼介には分かっていた。
「はい、お待たせ」
奏が運んできたのは、和食だった。肉じゃが、味噌汁、だし巻き卵、ほうれん草のおひたし。そして炊きたてのご飯。
「すごい……本格的ですね」
「そう? 普通だよ」
涼介にとって、これは全然「普通」ではなかった。実家を出てから、こんなにちゃんとした家庭料理を食べた記憶がない。湯気が立ち上り、美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。
「いただきます」
手を合わせて箸を取り、まず肉じゃがを口に運ぶ。じゃがいもは中まで味が染みていて、ほくほくと崩れる。甘辛い味付けが舌の上に広がり、涼介は思わず目を閉じた。
「……美味しいです」
「本当? よかった」
奏が嬉しそうに笑う。その笑顔を見ながら食べる料理は、何倍も美味しく感じられた。
「黒川さんは、実家どこなんですか?」
「横浜です」
「へえ、近いんですね。よく帰るんですか?」
「……いえ、あまり」
涼介は曖昧に答えた。実家との関係は、あまり話したい話題ではない。両親は、涼介がゲイであることを知らない。知られたらどうなるか、涼介には想像がつかなかった。否定されるかもしれない。失望されるかもしれない。だから、今は距離を置いている。
「僕は広島なんです。瀬戸内海の近く」
奏は自分から話題を変えてくれた。その気遣いが、涼介には有り難かった。
「だから、東京に出てきた時は大変でした。人の多さとか、電車の複雑さとか」
「何年くらい東京に?」
「五年かな。声優の養成所に入るために上京して、それから」
声優。涼介はその言葉に反応した。前回、奏が語ってくれた過去。夢を追い、挫折した話。何百回もオーディションを受けても、一度も受からなかったこと。「君の声には特徴がない」と言われたこと。
涼介は、あの時の奏の表情を思い出していた。寂しさと諦めが入り混じった、どこか遠い目。その表情を見た瞬間、涼介は奏に惹かれた。声だけでなく、その人間性に。傷を抱えながらも、声を届け続けようとする強さに。
「今はナレーターの仕事と、配信と。両方やってるんですよね」
「うん。ナレーターは安定収入のため、配信は……自分のため、かな」
奏が少し照れたように笑った。
「配信では、好きなように声を出せるから。誰かが聴いてくれてると思うと、また頑張れる」
「……白石さんの声は、本当に綺麗だと思います」
前回も同じことを言った気がする。でも、何度でも言いたかった。この声が「特徴がない」と否定されたなんて、涼介には信じられなかったからだ。この声は、涼介の全身を震わせるほどだ。こんなにも美しい声が、なぜ認められなかったのか。
「ありがとう。黒川さんにそう言ってもらえると、すごく嬉しい」
奏の目が、柔らかく涼介を見つめていた。その視線に、涼介は胸が熱くなるのを感じた。
食事を終え、奏が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、二人は取り留めのない話を続けた。
好きな映画。好きな音楽。休日の過ごし方。話題は尽きることなく、気づけば時計は十時を回っていた。
「あ、もうこんな時間」
涼介は慌てて立ち上がった。
「すみません、長居してしまって」
「ううん、楽しかった。またご飯、食べに来てね」
奏は玄関まで涼介を見送った。ドアを開けると、廊下の静寂が広がっている。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。黒川さんと話せて、僕も楽しかったよ」
奏がそう言って、少しだけ身を乗り出した。涼介の顔が、奏の顔に近づく。
一瞬、キスされるのかと思った。
心臓が激しく鳴った。息が止まった。全身の神経が、目の前の奏に集中した。奏の瞳が、間近にある。深い茶色の瞳に、涼介自身が映り込んでいる。
しかし奏は、涼介の肩に軽く手を置いただけだった。
「おやすみなさい、黒川さん」
その声が、涼介の耳に直接注ぎ込まれるようだった。低く、甘く、どこか熱を帯びた声。配信で聴くあの声と同じで、けれど今は自分だけに向けられている。耳朶をくすぐるような、甘い囁き。
「おやすみなさい」
涼介は辛うじてそれだけ言い、自分の部屋に戻った。ドアを閉めて、その場にしゃがみ込む。
心臓がうるさい。顔が熱い。肩に置かれた奏の手の感触が、まだ残っている。
これは、まずい。
涼介は自分の状態を冷静に分析しようとした。しかし、理性的な思考はすぐに霧散した。頭の中を占めているのは、奏の笑顔と声だけだった。
その夜、涼介は壁に耳を当てた。いつもの配信の時間だ。
果たして、壁の向こうから声が聞こえてきた。
「……今日は、特別な夜だったよ」
奏の声だ。低く、甘く、いつもよりどこか弾んでいる。
「大切な人と、一緒にご飯を食べた。当たり前のことなのに、すごく幸せだった」
涼介の心臓が、また跳ねた。「大切な人」。それは、自分のことだろうか。
「また会いましたね、って言えるのが嬉しい。運命みたいって、思っちゃう」
涼介は息を飲んだ。その言葉に、奏の想いが込められているような気がした。
偶然という名の必然。
二人の出会いは、本当に偶然だったのだろうか。涼介にはもう、分からなくなっていた。
「今度の休み、よかったら出かけませんか?」 水曜日の夜、奏からそう誘われた。 涼介は一瞬、自分の耳を疑った。出かける。二人で。それはつまり、デートということではないのか。「どこに行くんですか?」「映画と、ランチと……あとは、散歩でもしようかなって。黒川さんの行きたいところ、どこでもいいよ」 奏は微笑んでいた。その笑顔には、期待と緊張が入り混じっているように見えた。「喜んで」 涼介は即答した。断る理由など、どこにもなかった。 * 土曜日。 涼介は朝から緊張していた。何を着ていくか、三十分以上悩んだ。小さなウォークインクローゼットの中を何度も行き来し、何着も試しては脱ぎ捨てた。結局、白いシャツにベージュのチノパンという、いつもより少しだけカジュアルな格好を選んだ。 鏡の前で髪を整えながら、涼介は自分を笑った。こんなに念入りに身支度をするのは、いつ以来だろう。デートだ。奏とのデート。その事実だけで、涼介の心は浮き立っていた。 約束の十時、マンションのエントランスで奏と待ち合わせた。 奏は淡いブルーのカットソーに細身の黒いパンツを合わせ、焦げ茶の髪を後ろで緩く束ねていた。その姿は、涼介の心臓を掴んで離さなかった。細い首筋、華奢な肩、すらりと伸びた足。どこを見ても、涼介の目は釘付けになった。「おはよう、黒川さん」「おはようございます」 二人は電車に乗り、都心へ向かった。 車内は混んでいて、吊り革につかまって立つしかなかった。人混みの中、奏の体が涼介に押し付けられる形になった。「ごめん、狭くて」「いえ、大丈夫です」 大丈夫ではなかった。奏の体温が涼介の体に伝わってくる。シャンプーの香りが鼻をくすぐる。心臓がバクバクいって、きっと奏にも聞こえているのではないかと思った。電車の揺れに合わせて奏の体が涼介に当たる。そのたびに、涼介の全身に電流が走った。 目的地の渋谷で降り、まず映画館へ向かった。 観
日曜日の午後だった。 涼介は奏の部屋で、二人で映画を観ていた。奏が選んだのは、フランスの古い恋愛映画だった。字幕を追いながら、涼介は時折、隣の奏の横顔を盗み見ていた。画面の光に照らされたその横顔は、映画の登場人物よりも美しく見えた。 映画のクライマックスに差し掛かった時、奏のスマートフォンが鳴った。 奏は画面を見て、表情を曇らせた。一瞬、その目に暗い影がよぎった。小さくため息をついて、着信を無視した。「……ごめん、出たくない相手だから。しばらく鳴るかも」 奏はそう言って、スマートフォンを裏返しにしてテーブルの上に置いた。スマートフォンはしばらく振動し続けたが、やがて静かになった。しかし、奏の表情は、晴れないままだった。「大丈夫ですか?」 涼介は気になって尋ねた。奏の様子が、明らかにいつもと違ったからだ。「……うん、大丈夫。ちょっと面倒な人がいてね」 奏の答えは、曖昧だった。それ以上聞くなという空気が、奏の周りに漂っていた。涼介は「面倒な人」という言葉の意味を、考えずにはいられなかった。 涼介はそれ以上追及しなかった。けれど、胸の中にかすかな不安が芽生えた。 * 数日後、涼介は仕事帰りに駅前のカフェの前を通りかかった。 ガラス越しに店内が見える。その中に、見覚えのある後ろ姿があった。 焦げ茶のセミロング。奏だ。 涼介は足を止めた。奏の向かいに、男が座っている。三十代前半くらいだろうか。黒髪を短く刈り込んだ、精悍な顔立ちの男だ。眼鏡をかけていて、知的な印象を与える。 二人は親しげに話していた。男が何か言うと、奏が小さく笑う。その笑顔は、涼介に見せるものとは少し違う気がした。もっと気安くて親密な笑顔。昔からの知り合い同士が見せる、遠慮のない表情だった。 涼介の胸に、チクリと痛みが走った。 誰だ、あの男は。奏と、どういう関係なのだ。あの日、電話に出たくないと言っていた相手だろうか。 涼介は自分の感情に驚いた
雨の夜から、一週間が経った。 涼介と奏の距離は、更に近づいていた。 週末には一緒に買い物に出かけた。駅前のスーパーで食材を選び、そのあと奏の部屋で一緒に料理を作った。涼介は料理が得意ではなかったが、奏が横で丁寧に教えてくれた。「包丁はこうやって持つといいよ。指を切らないように」 奏が涼介の手を取り、包丁の握り方を直す。その手の温もりに、涼介の心臓が跳ねた。細い指が、涼介の指に重なる。その感触が、涼介の神経を刺激した。「力を入れすぎないで。野菜は押すんじゃなくて、引いて切るの」 奏の声が、耳元で響く。至近距離で聞く奏の声は、配信で聴くよりもずっと生々しかった。息遣いまで聞こえる。その声に導かれるまま、涼介は包丁を動かした。 平日の夜は、仕事終わりに一緒にコンビニに寄ることが増えた。たまたま会うこともあれば、涼介が帰宅する時間に奏がエレベーターホールで待っていることもあった。「お帰り、黒川さん」 その言葉を聞くたびに、涼介の胸が温かくなる。待っていてくれる人がいる。それだけで、深夜の残業も耐えられる気がした。疲れ切った体が、奏の声を聴いた瞬間に少しだけ軽くなる。 映画も一緒に観た。奏の部屋で、奏が好きだという古い恋愛映画を。「この映画、何度観ても泣いちゃうんだ」 奏が目を潤ませながら言った。涼介は隣で、その横顔を見つめていた。画面の光に照らされた奏の顔は、とても美しかった。涙で濡れた睫毛が、光を反射している。その姿に、涼介は息を呑んだ。 恋人のようで、まだ恋人じゃない。 その曖昧な関係が、涼介には心地よくもあり、もどかしくもあった。 * その日の夜、涼介は壁に耳を当てて奏の配信を聴いていた。 いつもと同じ、深夜の囁き声。しかしこの夜、奏の言葉は明らかに涼介を意識していた。「今日は、雨の話をしようかな」 奏の声が、壁を通して涼介の耳に届く。その声は、いつもよりゆっくりと、丁寧に紡がれていた。「雨の日って……誰かと一つ
梅雨入りが発表されてから、一週間が経った。 六月の東京は、どんよりとした雲に覆われる日が多くなった。朝起きた時は晴れていても、夕方には雨が降り出す。そんな不安定な天気が続いていた。 涼介と奏は、あれから何度か食事を共にしていた。奏の部屋で夕食を食べることもあれば、近くのファミレスで一緒にランチをすることもある。ごく自然に、二人の距離は縮まっていった。 しかし涼介は、それ以上踏み込めずにいた。 奏は優しい。いつも笑顔で、涼介の話に耳を傾けてくれる。一緒にいると心地よくて、時間があっという間に過ぎる。 けれど、それだけだ。涼介は自分の感情を押し殺し、ただの「隣人」以上の関係になることを恐れていた。 誤配達の日、初めて奏と顔を合わせた瞬間、涼介は恋に落ちた。一目惚れだった。声だけを知っていた時からひかれていたが、あの中性的で繊細な美貌を見た瞬間、涼介の心は完全に奪われた。整った顔立ち、細い体、柔らかな物腰。そして何より、あの声。すべてが、涼介の理想そのものだった。 だが、その想いを口にすることはできなかった。 ゲイであることを隠して生きてきた涼介は、誰かに本気で恋をすることが怖かった。好きになれば傷つき、期待すれば裏切られる。そう自分に言い聞かせてきた。これまでも何度か、男性にひかれたことはあった。けれど、その度に自分の感情を押し殺してきた。相手が同じ気持ちである保証はない。むしろ、嫌悪される可能性の方が高い。 それに、奏が自分をどう思っているのかも分からない。配信では「大切な人」と言っていたけれど、それが恋愛感情なのか、ただの友情なのか、涼介には判断がつかなかった。奏はナレーターとして、配信者として、言葉を巧みに操る人だ。その言葉をそのまま受け取っていいのか、涼介には分からなかった。 もし告白して、拒絶されたら? 今のこの心地よい関係が、壊れてしまったら? その恐怖が、涼介の足を止めていた。 * その日は、木曜日だった。 朝から雨が降っていて、涼介は折り畳み傘を鞄に入れて家を出た。しかし午後になって雨は止み、夕方には薄日さえ差していた。
2-1 偶然という名の必然 土曜の誤配達から三日が経った。 その間、涼介は一度も奏と顔を合わせていない。それにもかかわらず、隣室の存在は以前より遥かに重く、涼介の意識を占めるようになっていた。 廊下を歩くたびに四〇三号室のドアを見てしまう。エレベーターが開くたびに、中に誰がいるのか確認してしまう。自分の部屋にいても、壁の向こうから物音がするたびに耳を傾けてしまう。まるで思春期の少年のようだと、涼介は自嘲した。二十八にもなって、隣人の気配一つに心を乱されている。 あの日、奏の部屋でお茶を飲みながら話した時間が、涼介の頭から離れなかった。配信ブースを見せてもらい、「KANA」という配信者名を教えてもらった。奏の声を、壁越しではなく直接聴いた。その声は、配信で聴くよりもずっと近くて、ずっと甘かった。耳のすぐそばで囁かれているような錯覚を覚える。鼓膜を震わせるだけでなく、胸の奥まで染み込んでくるような響きだった。 あの声の持ち主が、壁一枚向こうに住んでいる。その事実だけで、涼介の心は落ち着かなかった。 水曜日の朝だった。 出勤前、ゴミを持って部屋を出た涼介は、廊下の先に見覚えのある後ろ姿を見つけて足を止めた。 焦げ茶のセミロングが揺れている。奏だ。同じようにゴミ袋を手にしている。 涼介の心臓が跳ねた。声をかけるべきか。いや、不自然だ。同じマンションに住んでいるだけの隣人に、わざわざ声をかける必要はない。そう思いながらも、足は自然と奏の方へ向かっていた。「おはようございます」 声をかけたのは奏の方だった。振り返った顔に、穏やかな笑みが浮かんでいる。その声は、朝の静けさの中で透き通るように響いた。低すぎず、高すぎず、どこか心地よい周波数。聴覚の鋭い涼介には、その声の輪郭がはっきりと感じ取れた。「あ……おはようございます」 涼介は慌てて頭を下げた。会いたいと思っていたくせに、いざ目の前にすると緊張で言葉が出てこない。「ゴミ出しですか?」「ええ、まあ」 当たり前の
土曜日の昼過ぎ。 珍しく休日出勤がなかった涼介は、惰眠を貪っていた。 平日の疲れが溜まりに溜まって、目覚まし時計が鳴っても起き上がれない。ようやくベッドから這い出したのは、正午を過ぎた頃になってからだった。 カーテンの隙間から、眩しい光が差し込んでいる。涼介は目を細めながら、キッチンに向かった。 冷蔵庫を開けると、中はほとんど空っぽだった。牛乳のパック、卵が二個、萎びた野菜が少々。賞味期限を過ぎたヨーグルトが、奥の方で忘れ去られている。 買い物に行かなければ。 そう思いながらも、体が動かない。休日くらい、何もしたくなかった。 コンビニでいいか。 涼介はそう結論づけて、着替えを始めた。スウェットパンツに、洗いざらしのTシャツ。休日の涼介は、平日のスーツ姿とは別人のようにだらしない。髪も寝癖のままで、髭も剃っていない。会社の同僚が見たら、目を疑うだろう。 インターホンが鳴ったのはその時だった。「宅配便でーす」 涼介は寝ぼけたままオートロックの解除ボタンを押す。 しばらくすると玄関のチャイムが鳴ったので、涼介は玄関に向かった。 ドアを開けると、配達員が段ボール箱を持って立っていた。汗を拭きながら、伝票を差し出す。「黒川さんですか?」「はい」「お届け物です。サインお願いします」 涼介は言われるままにサインをし、荷物を受け取った。特に何も頼んだ記憶はないが、会社関連の資料かもしれない。 ドアを閉めてから、ふと伝票を見た。「……白石奏様?」 宛名が違う。 住所を見ると、四〇三号室と書いてある。隣の部屋だ。 誤配達か。 涼介は溜息をついた。 本来なら配達員に返すべきだったが、すでにドアは閉まっている。今さら追いかけるのも面倒だ。 隣に届けるしかないだろう。 涼介は荷物を持って、四〇三号室の前に立った。 インターホンを押す。 数秒の沈







