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第二章 境界線を越えて

Penulis: 海野雫
last update Terakhir Diperbarui: 2026-01-04 11:00:29

2-1 偶然という名の必然

 土曜の誤配達から三日が経った。

 その間、涼介は一度も奏と顔を合わせていない。それにもかかわらず、隣室の存在は以前より遥かに重く、涼介の意識を占めるようになっていた。

 廊下を歩くたびに四〇三号室のドアを見てしまう。エレベーターが開くたびに、中に誰がいるのか確認してしまう。自分の部屋にいても、壁の向こうから物音がするたびに耳を傾けてしまう。まるで思春期の少年のようだと、涼介は自嘲した。二十八にもなって、隣人の気配一つに心を乱されている。

 あの日、奏の部屋でお茶を飲みながら話した時間が、涼介の頭から離れなかった。配信ブースを見せてもらい、「KANA」という配信者名を教えてもらった。奏の声を、壁越しではなく直接聴いた。その声は、配信で聴くよりもずっと近くて、ずっと甘かった。耳のすぐそばで囁かれているような錯覚を覚える。鼓膜を震わせるだけでなく、胸の奥まで染み込んでくるような響きだった。

 あの声の持ち主が、壁一枚向こうに住んでいる。その事実だけで、涼介の心は落ち着かなかった。

 水曜日の朝だった。

 出勤前、ゴミを持って部屋を出た涼介は、廊下の先に見覚えのある後ろ姿を見つけて足を止めた。

 焦げ茶のセミロングが揺れている。奏だ。同じようにゴミ袋を手にしている。

 涼介の心臓が跳ねた。声をかけるべきか。いや、不自然だ。同じマンションに住んでいるだけの隣人に、わざわざ声をかける必要はない。そう思いながらも、足は自然と奏の方へ向かっていた。

「おはようございます」

 声をかけたのは奏の方だった。振り返った顔に、穏やかな笑みが浮かんでいる。その声は、朝の静けさの中で透き通るように響いた。低すぎず、高すぎず、どこか心地よい周波数。聴覚の鋭い涼介には、その声の輪郭がはっきりと感じ取れた。

「あ……おはようございます」

 涼介は慌てて頭を下げた。会いたいと思っていたくせに、いざ目の前にすると緊張で言葉が出てこない。

「ゴミ出しですか?」

「ええ、まあ」

 当たり前のことを聞かれて、当たり前のことしか答えられない。涼介は自分の語彙の乏しさに苛立った。

 二人は並んでゴミ集積所へ向かった。朝七時過ぎ、通勤前の住人がちらほらとマンションを出ていく時間帯だ。六月の朝の空気はまだひんやりとしていて、薄手のシャツ一枚では少し肌寒い。

「黒川さんは、お仕事早いんですね」

 奏が横目でこちらを見ながら言った。「黒川さん」と呼ばれたことに、涼介の胸が小さく震えた。名字で呼ばれているだけなのに、なぜかこんなにも嬉しいのか。

「八時には会社に着いていたいので」

「真面目なんですね」

「そうでもないですよ」

 嘘だ。真面目だから、こんな時間にゴミを出しているのだ。帰宅が深夜になることが多い涼介にとって、朝のゴミ出しは数少ない生活感のある行動だった。

 ゴミ集積所で袋を置き、涼介はマンションに戻ろうとした。その時、奏が小さな声を上げた。

「あ、手、切ってる」

「え?」

 涼介は自分の手を見下ろした。右手の人差し指に、いつの間にか小さな切り傷ができている。おそらくゴミを縛る時に、ビニールテープの端で切ったのだろう。血は出ていないが、皮膚が白く裂けている。

「大丈夫ですか?」

 奏が心配そうな顔で涼介の手を覗き込む。その距離の近さに、涼介の心拍数が上がった。シャンプーとは違う、柔らかな香りがほのかに漂う。石鹸の清潔な匂いに、何か甘い香りが混じっている。

「大したことないです」

「でも、ばい菌が入ったら大変ですよ。うち、絆創膏あるから持ってきましょうか」

「いえ、そこまでしてもらわなくても」

「すぐですから」

 奏は涼介の返事を待たず、軽い足取りでマンションの入り口へ向かっていった。

 取り残された涼介は、自分の指を見つめた。こんな些細な傷のために、奏が自分の部屋に戻ってくれている。それだけのことなのに、胸の奥がじわりと温かくなる。

 誰かに気にかけてもらえるのは、いつ以来だろう。職場では常に気を張り、プライベートでは誰とも深く関わらない生活を続けてきた。心配されることも、世話を焼かれることも、涼介にはほとんど縁のないことだった。ゲイであることを隠し、本当の自分を見せられる相手がいない。そんな孤独な日々の中で、奏の何気ない気遣いは、涼介の心に深く染み込んだ。

 三分もしないうちに、奏が戻ってきた。

「はい、どうぞ」

 差し出されたのは、キャラクターものの絆創膏だった。丸っこい猫のイラストが描かれている。

「……可愛いですね」

「あはは、これしかなくて。恥ずかしいですか?」

「いえ」

 涼介は首を横に振った。恥ずかしいどころか、なんだか嬉しかった。奏の日常の一部を垣間見たような気がして。こんな可愛らしい絆創膏を使う人なのだ。配信で聴く艶めいた声の主が、猫のイラストの絆創膏を持っている。そのギャップが、涼介の胸をくすぐった。

「貼りますね」

 奏は当然のように涼介の手を取った。細い指が、涼介の指に触れる。その瞬間、涼介の思考が一瞬停止した。

 温かい。奏の指は、思っていたよりずっと温かかった。

 丁寧な手つきで絆創膏を貼られる間、涼介は息をするのも忘れていた。触れ合う肌の感触も、耳の奥でざわめく血流の音も、すべてが異様に鮮明に感じられる。奏の指が自分の指に触れている。それだけのことが、涼介の全神経を集中させていた。

「はい、できました」

 奏が顔を上げて笑った。その笑顔を間近で見て、涼介の心臓が大きく跳ねた。整った顔立ち、少し上がった口角、優しく細められた目。その目に、涼介はまっすぐに見つめられていた。

「……ありがとうございます」

「いえいえ。じゃあ、お仕事頑張ってくださいね」

 奏はひらひらと手を振って、自分の部屋へ戻っていった。涼介はその後ろ姿を見送りながら、絆創膏の貼られた指を見下ろした。

 可愛らしい猫のイラストが、傷を覆っている。その指に、まだ奏の体温が残っている気がした。指先がじんわりと熱い。その熱が、腕を伝って心臓まで届くような気がした。

    *

 それから、奏との「偶然」が続いた。

 木曜日の夜。残業を終えて帰宅した涼介は、マンションのエントランスで奏と出くわした。奏は郵便受けを覗いているところだった。

「あ、黒川さん。お疲れ様です」

 その声が、夜の静けさの中で柔らかく響いた。

「お疲れ様です」

「今日も遅かったんですね。大変ですね。」

 奏の言葉には、労わりが込められていた。その優しさに、涼介は強張っていた肩から力が抜けていくのを感じた。

 金曜日の夜。残業を終えて帰宅した涼介は、エレベーターホールで奏と鉢合わせた。

「あれ、黒川さん。お帰りなさい」

 奏はコンビニの袋を手にしていた。缶ビールとスナック菓子が見えている。

「ただいま……じゃなくて、お疲れ様です」

 思わず口をついて出た言葉に、涼介は内心焦った。「ただいま」なんて、まるで家族か恋人に言うような言葉だ。

「ふふ、ただいま、でいいですよ。帰ってきたんですから」

 奏は気にした様子もなく笑った。その笑い声もまた、心地よい響きだった。低すぎず、明るすぎず、どこか包み込むような音色だった。その声を聴くと、一日の疲れが少しだけ和らぐ気がした。

 エレベーターを待つ間、沈黙が流れた。涼介は何か話題を探したが、疲れ切った頭では気の利いたことが何も浮かばない。

「お仕事、大変そうですね」

 先に口を開いたのは奏だった。

「いつも遅いから。帰りの足音、だいたい日付が変わってからだから」

「……聞こえてますか」

「うん。でも迷惑とかじゃないですよ。むしろ、ああ、帰ってきたんだなって、ちょっと安心するくらい」

 安心する。その言葉が、涼介の胸に深く染み込んだ。自分の帰宅を、誰かが待っていてくれている。それはここ数年、涼介が忘れかけていた感覚だった。

 エレベーターが到着し、二人は並んで乗り込んだ。狭い箱の中、奏の存在がいつもより近く感じられる。閉ざされた空間に、奏の香りが満ちている。

「黒川さん、ちゃんと食べてます?」

「……まあ、それなりには」

「コンビニ弁当ばっかりじゃないですか?」

 図星だった。涼介の食生活は、コンビニ弁当とカップ麺でほとんど構成されている。

「今度、一緒にご飯食べましょうよ。僕、料理するの好きなんです」

 突然の誘いに、涼介は目を見開いた。

「え、でも、ご迷惑じゃ……」

「迷惑なんかじゃないですよ。一人分作るのも二人分作るのも、手間はそんなに変わらないし」

 エレベーターが四階に止まり、扉が開いた。奏は先に降りて、振り返った。

「明日の夜、空いてます?」

「明日……」

 土曜日。特に予定はない。いつものように部屋に閉じこもり、奏の配信を聴いて過ごすつもりだった。

「よかったら、うちに来てください。腕によりをかけますから」

 奏はそう言って、四〇三号室のドアの前に立った。

「じゃあ、また明日」

 ドアが閉まる直前、奏がこちらを振り返って微笑んだ。その笑顔が、涼介の網膜に焼き付いた。

 こうも頻繁に奏と顔を合わせるのは、偶然なのだろうか。涼介はふと疑問に感じた。毎回、絶妙なタイミングで出会う。まるで、自分の帰宅時間を知っているかのように。

 いや、そんなはずはない。考えすぎだ。

 涼介は首を振って、その考えを打ち消した。たまたまだ。きっと、たまたま生活のリズムが似ているだけだ。そう自分に言い聞かせた。

    *

 土曜日。

 涼介は午前中から落ち着かなかった。夕食に招待されただけなのに、まるで初めてのデートに向かうかのような緊張感がある。

 何を着ていけばいいのか分からない。普段は仕事用のスーツか、休日用のラフな格好しかない。隣人の家に行くのに、スーツでは堅苦しすぎる。かといって、よれよれのTシャツでは失礼だろう。

 結局、涼介は紺色のシャツに黒のチノパンという無難な格好を選んだ。鏡で自分の姿を確認して、ふと笑ってしまう。たかが隣人との夕食に、こんなに悩むなんて。

 約束の七時、涼介は四〇三号室のインターホンを押した。

「いらっしゃい」

 ドアを開けた奏は、エプロン姿だった。白いシャツの上にベージュのエプロンを着けている。その家庭的な姿に、涼介の心臓がまたしても跳ねた。髪は後ろで緩く束ねられていて、細い首筋が見えている。その首筋に、涼介の視線が吸い寄せられた。

「お邪魔します」

「どうぞどうぞ、上がって」

 奏の部屋に足を踏み入れるのは、誤配達の日以来、二度目だった。あの日はお茶を飲んで少し話しただけだったが、今日は夕食を共にする。それだけで、涼介の胸は期待と緊張で張り裂けそうだった。

 部屋は前と変わらず、温かみのある空間だった。観葉植物が窓際に置かれ、壁には映画のポスターが貼られている。間接照明が柔らかな光を放ち、落ち着いた雰囲気を作り出している。壁際の配信ブースも、相変わらず涼介の部屋との境界に向かって設置されていた。あのブースから、毎晩あの声が発せられている。その場所がすぐそこにあるという事実が、涼介の胸を高鳴らせた。

「座って待ってて。もうすぐできるから」

 奏はキッチンに戻り、鍋を覗き込んだ。涼介は言われるままにテーブルの前に座った。

 キッチンで料理をする奏の後ろ姿を、涼介は眺めていた。細い背中、エプロンの紐が腰で結ばれている。包丁の音、鍋の煮える音、奏が小さく口ずさむ鼻歌。その音の一つひとつが、涼介の耳に心地よく響いた。

 ここが、奏の生活する空間なのだ。前回来た時よりも、その事実が涼介の胸に重く響いた。奏と過ごす時間が増えるごとに、涼介の中で何かが膨らんでいく。それが何なのか、涼介には分かっていた。

「はい、お待たせ」

 奏が運んできたのは、和食だった。肉じゃが、味噌汁、だし巻き卵、ほうれん草のおひたし。そして炊きたてのご飯。

「すごい……本格的ですね」

「そう? 普通だよ」

 涼介にとって、これは全然「普通」ではなかった。実家を出てから、こんなにちゃんとした家庭料理を食べた記憶がない。湯気が立ち上り、美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。

「いただきます」

 手を合わせて箸を取り、まず肉じゃがを口に運ぶ。じゃがいもは中まで味が染みていて、ほくほくと崩れる。甘辛い味付けが舌の上に広がり、涼介は思わず目を閉じた。

「……美味しいです」

「本当? よかった」

 奏が嬉しそうに笑う。その笑顔を見ながら食べる料理は、何倍も美味しく感じられた。

「黒川さんは、実家どこなんですか?」

「横浜です」

「へえ、近いんですね。よく帰るんですか?」

「……いえ、あまり」

 涼介は曖昧に答えた。実家との関係は、あまり話したい話題ではない。両親は、涼介がゲイであることを知らない。知られたらどうなるか、涼介には想像がつかなかった。否定されるかもしれない。失望されるかもしれない。だから、今は距離を置いている。

「僕は広島なんです。瀬戸内海の近く」

 奏は自分から話題を変えてくれた。その気遣いが、涼介には有り難かった。

「だから、東京に出てきた時は大変でした。人の多さとか、電車の複雑さとか」

「何年くらい東京に?」

「五年かな。声優の養成所に入るために上京して、それから」

 声優。涼介はその言葉に反応した。前回、奏が語ってくれた過去。夢を追い、挫折した話。何百回もオーディションを受けても、一度も受からなかったこと。「君の声には特徴がない」と言われたこと。

 涼介は、あの時の奏の表情を思い出していた。寂しさと諦めが入り混じった、どこか遠い目。その表情を見た瞬間、涼介は奏に惹かれた。声だけでなく、その人間性に。傷を抱えながらも、声を届け続けようとする強さに。

「今はナレーターの仕事と、配信と。両方やってるんですよね」

「うん。ナレーターは安定収入のため、配信は……自分のため、かな」

 奏が少し照れたように笑った。

「配信では、好きなように声を出せるから。誰かが聴いてくれてると思うと、また頑張れる」

「……白石さんの声は、本当に綺麗だと思います」

 前回も同じことを言った気がする。でも、何度でも言いたかった。この声が「特徴がない」と否定されたなんて、涼介には信じられなかったからだ。この声は、涼介の全身を震わせるほどだ。こんなにも美しい声が、なぜ認められなかったのか。

「ありがとう。黒川さんにそう言ってもらえると、すごく嬉しい」

 奏の目が、柔らかく涼介を見つめていた。その視線に、涼介は胸が熱くなるのを感じた。

 食事を終え、奏が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、二人は取り留めのない話を続けた。

 好きな映画。好きな音楽。休日の過ごし方。話題は尽きることなく、気づけば時計は十時を回っていた。

「あ、もうこんな時間」

 涼介は慌てて立ち上がった。

「すみません、長居してしまって」

「ううん、楽しかった。またご飯、食べに来てね」

 奏は玄関まで涼介を見送った。ドアを開けると、廊下の静寂が広がっている。

「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ。黒川さんと話せて、僕も楽しかったよ」

 奏がそう言って、少しだけ身を乗り出した。涼介の顔が、奏の顔に近づく。

 一瞬、キスされるのかと思った。

 心臓が激しく鳴った。息が止まった。全身の神経が、目の前の奏に集中した。奏の瞳が、間近にある。深い茶色の瞳に、涼介自身が映り込んでいる。

 しかし奏は、涼介の肩に軽く手を置いただけだった。

「おやすみなさい、黒川さん」

 その声が、涼介の耳に直接注ぎ込まれるようだった。低く、甘く、どこか熱を帯びた声。配信で聴くあの声と同じで、けれど今は自分だけに向けられている。耳朶をくすぐるような、甘い囁き。

「おやすみなさい」

 涼介は辛うじてそれだけ言い、自分の部屋に戻った。ドアを閉めて、その場にしゃがみ込む。

 心臓がうるさい。顔が熱い。肩に置かれた奏の手の感触が、まだ残っている。

 これは、まずい。

 涼介は自分の状態を冷静に分析しようとした。しかし、理性的な思考はすぐに霧散した。頭の中を占めているのは、奏の笑顔と声だけだった。

 その夜、涼介は壁に耳を当てた。いつもの配信の時間だ。

 果たして、壁の向こうから声が聞こえてきた。

「……今日は、特別な夜だったよ」

 奏の声だ。低く、甘く、いつもよりどこか弾んでいる。

「大切な人と、一緒にご飯を食べた。当たり前のことなのに、すごく幸せだった」

 涼介の心臓が、また跳ねた。「大切な人」。それは、自分のことだろうか。

「また会いましたね、って言えるのが嬉しい。運命みたいって、思っちゃう」

 涼介は息を飲んだ。その言葉に、奏の想いが込められているような気がした。

 偶然という名の必然。

 二人の出会いは、本当に偶然だったのだろうか。涼介にはもう、分からなくなっていた。

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