Masuk2-1 偶然という名の必然
土曜の誤配達から三日が経った。
その間、涼介は一度も奏と顔を合わせていない。それにもかかわらず、隣室の存在は以前より遥かに重く、涼介の意識を占めるようになっていた。
廊下を歩くたびに四〇三号室のドアを見てしまう。エレベーターが開くたびに、中に誰がいるのか確認してしまう。自分の部屋にいても、壁の向こうから物音がするたびに耳を傾けてしまう。まるで思春期の少年のようだと、涼介は自嘲した。二十八にもなって、隣人の気配一つに心を乱されている。
あの日、奏の部屋でお茶を飲みながら話した時間が、涼介の頭から離れなかった。配信ブースを見せてもらい、「KANA」という配信者名を教えてもらった。奏の声を、壁越しではなく直接聴いた。その声は、配信で聴くよりもずっと近くて、ずっと甘かった。耳のすぐそばで囁かれているような錯覚を覚える。鼓膜を震わせるだけでなく、胸の奥まで染み込んでくるような響きだった。
あの声の持ち主が、壁一枚向こうに住んでいる。その事実だけで、涼介の心は落ち着かなかった。
水曜日の朝だった。
出勤前、ゴミを持って部屋を出た涼介は、廊下の先に見覚えのある後ろ姿を見つけて足を止めた。
焦げ茶のセミロングが揺れている。奏だ。同じようにゴミ袋を手にしている。
涼介の心臓が跳ねた。声をかけるべきか。いや、不自然だ。同じマンションに住んでいるだけの隣人に、わざわざ声をかける必要はない。そう思いながらも、足は自然と奏の方へ向かっていた。
「おはようございます」
声をかけたのは奏の方だった。振り返った顔に、穏やかな笑みが浮かんでいる。その声は、朝の静けさの中で透き通るように響いた。低すぎず、高すぎず、どこか心地よい周波数。聴覚の鋭い涼介には、その声の輪郭がはっきりと感じ取れた。
「あ……おはようございます」
涼介は慌てて頭を下げた。会いたいと思っていたくせに、いざ目の前にすると緊張で言葉が出てこない。
「ゴミ出しですか?」
「ええ、まあ」
当たり前のことを聞かれて、当たり前のことしか答えられない。涼介は自分の語彙の乏しさに苛立った。
二人は並んでゴミ集積所へ向かった。朝七時過ぎ、通勤前の住人がちらほらとマンションを出ていく時間帯だ。六月の朝の空気はまだひんやりとしていて、薄手のシャツ一枚では少し肌寒い。
「黒川さんは、お仕事早いんですね」
奏が横目でこちらを見ながら言った。「黒川さん」と呼ばれたことに、涼介の胸が小さく震えた。名字で呼ばれているだけなのに、なぜかこんなにも嬉しいのか。
「八時には会社に着いていたいので」
「真面目なんですね」
「そうでもないですよ」
嘘だ。真面目だから、こんな時間にゴミを出しているのだ。帰宅が深夜になることが多い涼介にとって、朝のゴミ出しは数少ない生活感のある行動だった。
ゴミ集積所で袋を置き、涼介はマンションに戻ろうとした。その時、奏が小さな声を上げた。
「あ、手、切ってる」
「え?」
涼介は自分の手を見下ろした。右手の人差し指に、いつの間にか小さな切り傷ができている。おそらくゴミを縛る時に、ビニールテープの端で切ったのだろう。血は出ていないが、皮膚が白く裂けている。
「大丈夫ですか?」
奏が心配そうな顔で涼介の手を覗き込む。その距離の近さに、涼介の心拍数が上がった。シャンプーとは違う、柔らかな香りがほのかに漂う。石鹸の清潔な匂いに、何か甘い香りが混じっている。
「大したことないです」
「でも、ばい菌が入ったら大変ですよ。うち、絆創膏あるから持ってきましょうか」
「いえ、そこまでしてもらわなくても」
「すぐですから」
奏は涼介の返事を待たず、軽い足取りでマンションの入り口へ向かっていった。
取り残された涼介は、自分の指を見つめた。こんな些細な傷のために、奏が自分の部屋に戻ってくれている。それだけのことなのに、胸の奥がじわりと温かくなる。
誰かに気にかけてもらえるのは、いつ以来だろう。職場では常に気を張り、プライベートでは誰とも深く関わらない生活を続けてきた。心配されることも、世話を焼かれることも、涼介にはほとんど縁のないことだった。ゲイであることを隠し、本当の自分を見せられる相手がいない。そんな孤独な日々の中で、奏の何気ない気遣いは、涼介の心に深く染み込んだ。
三分もしないうちに、奏が戻ってきた。
「はい、どうぞ」
差し出されたのは、キャラクターものの絆創膏だった。丸っこい猫のイラストが描かれている。
「……可愛いですね」
「あはは、これしかなくて。恥ずかしいですか?」
「いえ」
涼介は首を横に振った。恥ずかしいどころか、なんだか嬉しかった。奏の日常の一部を垣間見たような気がして。こんな可愛らしい絆創膏を使う人なのだ。配信で聴く艶めいた声の主が、猫のイラストの絆創膏を持っている。そのギャップが、涼介の胸をくすぐった。
「貼りますね」
奏は当然のように涼介の手を取った。細い指が、涼介の指に触れる。その瞬間、涼介の思考が一瞬停止した。
温かい。奏の指は、思っていたよりずっと温かかった。
丁寧な手つきで絆創膏を貼られる間、涼介は息をするのも忘れていた。触れ合う肌の感触も、耳の奥でざわめく血流の音も、すべてが異様に鮮明に感じられる。奏の指が自分の指に触れている。それだけのことが、涼介の全神経を集中させていた。
「はい、できました」
奏が顔を上げて笑った。その笑顔を間近で見て、涼介の心臓が大きく跳ねた。整った顔立ち、少し上がった口角、優しく細められた目。その目に、涼介はまっすぐに見つめられていた。
「……ありがとうございます」
「いえいえ。じゃあ、お仕事頑張ってくださいね」
奏はひらひらと手を振って、自分の部屋へ戻っていった。涼介はその後ろ姿を見送りながら、絆創膏の貼られた指を見下ろした。
可愛らしい猫のイラストが、傷を覆っている。その指に、まだ奏の体温が残っている気がした。指先がじんわりと熱い。その熱が、腕を伝って心臓まで届くような気がした。
*
それから、奏との「偶然」が続いた。
木曜日の夜。残業を終えて帰宅した涼介は、マンションのエントランスで奏と出くわした。奏は郵便受けを覗いているところだった。
「あ、黒川さん。お疲れ様です」
その声が、夜の静けさの中で柔らかく響いた。
「お疲れ様です」
「今日も遅かったんですね。大変ですね。」
奏の言葉には、労わりが込められていた。その優しさに、涼介は強張っていた肩から力が抜けていくのを感じた。
金曜日の夜。残業を終えて帰宅した涼介は、エレベーターホールで奏と鉢合わせた。
「あれ、黒川さん。お帰りなさい」
奏はコンビニの袋を手にしていた。缶ビールとスナック菓子が見えている。
「ただいま……じゃなくて、お疲れ様です」
思わず口をついて出た言葉に、涼介は内心焦った。「ただいま」なんて、まるで家族か恋人に言うような言葉だ。
「ふふ、ただいま、でいいですよ。帰ってきたんですから」
奏は気にした様子もなく笑った。その笑い声もまた、心地よい響きだった。低すぎず、明るすぎず、どこか包み込むような音色だった。その声を聴くと、一日の疲れが少しだけ和らぐ気がした。
エレベーターを待つ間、沈黙が流れた。涼介は何か話題を探したが、疲れ切った頭では気の利いたことが何も浮かばない。
「お仕事、大変そうですね」
先に口を開いたのは奏だった。
「いつも遅いから。帰りの足音、だいたい日付が変わってからだから」
「……聞こえてますか」
「うん。でも迷惑とかじゃないですよ。むしろ、ああ、帰ってきたんだなって、ちょっと安心するくらい」
安心する。その言葉が、涼介の胸に深く染み込んだ。自分の帰宅を、誰かが待っていてくれている。それはここ数年、涼介が忘れかけていた感覚だった。
エレベーターが到着し、二人は並んで乗り込んだ。狭い箱の中、奏の存在がいつもより近く感じられる。閉ざされた空間に、奏の香りが満ちている。
「黒川さん、ちゃんと食べてます?」
「……まあ、それなりには」
「コンビニ弁当ばっかりじゃないですか?」
図星だった。涼介の食生活は、コンビニ弁当とカップ麺でほとんど構成されている。
「今度、一緒にご飯食べましょうよ。僕、料理するの好きなんです」
突然の誘いに、涼介は目を見開いた。
「え、でも、ご迷惑じゃ……」
「迷惑なんかじゃないですよ。一人分作るのも二人分作るのも、手間はそんなに変わらないし」
エレベーターが四階に止まり、扉が開いた。奏は先に降りて、振り返った。
「明日の夜、空いてます?」
「明日……」
土曜日。特に予定はない。いつものように部屋に閉じこもり、奏の配信を聴いて過ごすつもりだった。
「よかったら、うちに来てください。腕によりをかけますから」
奏はそう言って、四〇三号室のドアの前に立った。
「じゃあ、また明日」
ドアが閉まる直前、奏がこちらを振り返って微笑んだ。その笑顔が、涼介の網膜に焼き付いた。
こうも頻繁に奏と顔を合わせるのは、偶然なのだろうか。涼介はふと疑問に感じた。毎回、絶妙なタイミングで出会う。まるで、自分の帰宅時間を知っているかのように。
いや、そんなはずはない。考えすぎだ。
涼介は首を振って、その考えを打ち消した。たまたまだ。きっと、たまたま生活のリズムが似ているだけだ。そう自分に言い聞かせた。
*
土曜日。
涼介は午前中から落ち着かなかった。夕食に招待されただけなのに、まるで初めてのデートに向かうかのような緊張感がある。
何を着ていけばいいのか分からない。普段は仕事用のスーツか、休日用のラフな格好しかない。隣人の家に行くのに、スーツでは堅苦しすぎる。かといって、よれよれのTシャツでは失礼だろう。
結局、涼介は紺色のシャツに黒のチノパンという無難な格好を選んだ。鏡で自分の姿を確認して、ふと笑ってしまう。たかが隣人との夕食に、こんなに悩むなんて。
約束の七時、涼介は四〇三号室のインターホンを押した。
「いらっしゃい」
ドアを開けた奏は、エプロン姿だった。白いシャツの上にベージュのエプロンを着けている。その家庭的な姿に、涼介の心臓がまたしても跳ねた。髪は後ろで緩く束ねられていて、細い首筋が見えている。その首筋に、涼介の視線が吸い寄せられた。
「お邪魔します」
「どうぞどうぞ、上がって」
奏の部屋に足を踏み入れるのは、誤配達の日以来、二度目だった。あの日はお茶を飲んで少し話しただけだったが、今日は夕食を共にする。それだけで、涼介の胸は期待と緊張で張り裂けそうだった。
部屋は前と変わらず、温かみのある空間だった。観葉植物が窓際に置かれ、壁には映画のポスターが貼られている。間接照明が柔らかな光を放ち、落ち着いた雰囲気を作り出している。壁際の配信ブースも、相変わらず涼介の部屋との境界に向かって設置されていた。あのブースから、毎晩あの声が発せられている。その場所がすぐそこにあるという事実が、涼介の胸を高鳴らせた。
「座って待ってて。もうすぐできるから」
奏はキッチンに戻り、鍋を覗き込んだ。涼介は言われるままにテーブルの前に座った。
キッチンで料理をする奏の後ろ姿を、涼介は眺めていた。細い背中、エプロンの紐が腰で結ばれている。包丁の音、鍋の煮える音、奏が小さく口ずさむ鼻歌。その音の一つひとつが、涼介の耳に心地よく響いた。
ここが、奏の生活する空間なのだ。前回来た時よりも、その事実が涼介の胸に重く響いた。奏と過ごす時間が増えるごとに、涼介の中で何かが膨らんでいく。それが何なのか、涼介には分かっていた。
「はい、お待たせ」
奏が運んできたのは、和食だった。肉じゃが、味噌汁、だし巻き卵、ほうれん草のおひたし。そして炊きたてのご飯。
「すごい……本格的ですね」
「そう? 普通だよ」
涼介にとって、これは全然「普通」ではなかった。実家を出てから、こんなにちゃんとした家庭料理を食べた記憶がない。湯気が立ち上り、美味しそうな匂いが鼻をくすぐる。
「いただきます」
手を合わせて箸を取り、まず肉じゃがを口に運ぶ。じゃがいもは中まで味が染みていて、ほくほくと崩れる。甘辛い味付けが舌の上に広がり、涼介は思わず目を閉じた。
「……美味しいです」
「本当? よかった」
奏が嬉しそうに笑う。その笑顔を見ながら食べる料理は、何倍も美味しく感じられた。
「黒川さんは、実家どこなんですか?」
「横浜です」
「へえ、近いんですね。よく帰るんですか?」
「……いえ、あまり」
涼介は曖昧に答えた。実家との関係は、あまり話したい話題ではない。両親は、涼介がゲイであることを知らない。知られたらどうなるか、涼介には想像がつかなかった。否定されるかもしれない。失望されるかもしれない。だから、今は距離を置いている。
「僕は広島なんです。瀬戸内海の近く」
奏は自分から話題を変えてくれた。その気遣いが、涼介には有り難かった。
「だから、東京に出てきた時は大変でした。人の多さとか、電車の複雑さとか」
「何年くらい東京に?」
「五年かな。声優の養成所に入るために上京して、それから」
声優。涼介はその言葉に反応した。前回、奏が語ってくれた過去。夢を追い、挫折した話。何百回もオーディションを受けても、一度も受からなかったこと。「君の声には特徴がない」と言われたこと。
涼介は、あの時の奏の表情を思い出していた。寂しさと諦めが入り混じった、どこか遠い目。その表情を見た瞬間、涼介は奏に惹かれた。声だけでなく、その人間性に。傷を抱えながらも、声を届け続けようとする強さに。
「今はナレーターの仕事と、配信と。両方やってるんですよね」
「うん。ナレーターは安定収入のため、配信は……自分のため、かな」
奏が少し照れたように笑った。
「配信では、好きなように声を出せるから。誰かが聴いてくれてると思うと、また頑張れる」
「……白石さんの声は、本当に綺麗だと思います」
前回も同じことを言った気がする。でも、何度でも言いたかった。この声が「特徴がない」と否定されたなんて、涼介には信じられなかったからだ。この声は、涼介の全身を震わせるほどだ。こんなにも美しい声が、なぜ認められなかったのか。
「ありがとう。黒川さんにそう言ってもらえると、すごく嬉しい」
奏の目が、柔らかく涼介を見つめていた。その視線に、涼介は胸が熱くなるのを感じた。
食事を終え、奏が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、二人は取り留めのない話を続けた。
好きな映画。好きな音楽。休日の過ごし方。話題は尽きることなく、気づけば時計は十時を回っていた。
「あ、もうこんな時間」
涼介は慌てて立ち上がった。
「すみません、長居してしまって」
「ううん、楽しかった。またご飯、食べに来てね」
奏は玄関まで涼介を見送った。ドアを開けると、廊下の静寂が広がっている。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ。黒川さんと話せて、僕も楽しかったよ」
奏がそう言って、少しだけ身を乗り出した。涼介の顔が、奏の顔に近づく。
一瞬、キスされるのかと思った。
心臓が激しく鳴った。息が止まった。全身の神経が、目の前の奏に集中した。奏の瞳が、間近にある。深い茶色の瞳に、涼介自身が映り込んでいる。
しかし奏は、涼介の肩に軽く手を置いただけだった。
「おやすみなさい、黒川さん」
その声が、涼介の耳に直接注ぎ込まれるようだった。低く、甘く、どこか熱を帯びた声。配信で聴くあの声と同じで、けれど今は自分だけに向けられている。耳朶をくすぐるような、甘い囁き。
「おやすみなさい」
涼介は辛うじてそれだけ言い、自分の部屋に戻った。ドアを閉めて、その場にしゃがみ込む。
心臓がうるさい。顔が熱い。肩に置かれた奏の手の感触が、まだ残っている。
これは、まずい。
涼介は自分の状態を冷静に分析しようとした。しかし、理性的な思考はすぐに霧散した。頭の中を占めているのは、奏の笑顔と声だけだった。
その夜、涼介は壁に耳を当てた。いつもの配信の時間だ。
果たして、壁の向こうから声が聞こえてきた。
「……今日は、特別な夜だったよ」
奏の声だ。低く、甘く、いつもよりどこか弾んでいる。
「大切な人と、一緒にご飯を食べた。当たり前のことなのに、すごく幸せだった」
涼介の心臓が、また跳ねた。「大切な人」。それは、自分のことだろうか。
「また会いましたね、って言えるのが嬉しい。運命みたいって、思っちゃう」
涼介は息を飲んだ。その言葉に、奏の想いが込められているような気がした。
偶然という名の必然。
二人の出会いは、本当に偶然だったのだろうか。涼介にはもう、分からなくなっていた。
挙式の場所は、カナダのバンクーバーに決まった。 奏が調べたところ、バンクーバーは同性カップルに寛容な街で、美しい自然に囲まれた結婚式場もいくつもあるという。「ここ、どうかな」 奏がパソコンの画面を見せてきた。そこには、海に面したチャペルの写真が映っていた。白い壁と大きな窓があり、背後には山々が連なっている。「綺麗だな」「でしょ? 天気がいい日は、窓から夕日が見えるんだって」 涼介は画面を見つめながら、現実感のなさに戸惑っていた。 結婚式。 数か月前までは、考えたこともなかった。いや、考えることを避けていた。ゲイである自分には、そんな未来はないと思い込んでいた。 だが今は違う。 奏と出会い、愛し合い、共に暮らすようになった。だからこそ、その先に結婚という選択肢がある。「涼介、どうしたの? ぼーっとして」「いや……実感がなくてな」「何が?」「俺が結婚するってことが」 奏がくすりと笑った。「僕もだよ。でも、嬉しい」「ああ。俺も」 涼介は奏の手を取った。「お前と結婚できて、幸せだ」「まだしてないよ。これからでしょ」「そうだな。これから、だ」 二人は顔を見合わせて笑った。 挙式の日程は、三か月後に決まった。 涼介は会社に休暇を申請した。一週間の休みを取るのは、入社以来初めてのことだった。「カナダ旅行か。いいな」 山下が羨ましそうに言った。「ああ。リフレッシュしてくる」「奏さんと二人で?」「ああ」 山下がにやりと笑った。「いいねえ、新婚旅行みたいだな」 涼介は一瞬、言葉に詰まった。 旅行の目的は山下にも伝えていなかった。いずれ話すつもりだが、今はまだ二人だけの秘密にしておきたかった。
翌朝、涼介は激しい頭痛とともに目を覚ました。 隣を見ると、奏はいなかった。リビングから、何かを作っている音が聞こえる。 時計を見ると、すでに九時を過ぎていた。「しまった……」 涼介は飛び起きた。今日は平日だ。遅刻だ。 リビングに出ると、奏がキッチンに立っていた。「起きた?」 奏の声は、いつもより冷たかった。「すまない、寝坊した。会社に……」「会社には連絡しておいた。体調不良で休むって」「え?」「昨日、すごく酔って帰ってきたから。朝になっても起きなかったし、無理だと思って」 涼介は記憶を辿った。昨夜のことは、断片的にしか覚えていない。居酒屋で飲んだこと、そこからどうやって帰ってきたのかは曖昧だ。「……悪かった」「座って。おかゆ、作ったから」 奏がテーブルにおかゆを置いた。涼介は黙って席に着いた。 奏は向かいに座らなかった。キッチンに戻り、洗い物を始めた。背中を向けたまま、動きを止めない。 沈黙が、重くのしかかる。「奏」「何?」 奏は振り返らない。「……俺、話さなきゃいけないことがある」 奏の手が止まった。 しばらくの沈黙の後、奏がゆっくりと振り返った。「やっと話す気になったんだ」 その声には、怒りと悲しみが混じっていた。「昨日、涼介が帰ってきたとき、すごく酔ってた。『もう駄目だ』とか『俺のせいで』とか、うわごとみたいに言ってた」 涼介は目を閉じた。 酔った勢いで、口が滑ったのだろう。隠していたことが、無意識に漏れ出していた。「……すまない」「謝らなくていい。それより、何があったか教えて」 奏がようやく涼介の前に座った。その目は、涼介を真
午後二時。人事部の会議室。 涼介の前には、人事部長と、直属の上司である村田部長が座っていた。「黒川くん、単刀直入に言う」 人事部長が口を開いた。「君を課長代理に昇進させることが決まった」 涼介は一瞬、言葉を失った。 課長代理。入社六年目での昇進は、この会社では異例の早さだ。通常は就くまでに十年以上かかる役職だ。「シンガポールでの成果は、本社でも高く評価されている。現地支社からの報告書を見たところ、君のリーダーシップと交渉力には目を見張るものがあった」「……ありがとうございます」 涼介は頭を下げた。内心では驚きが渦巻いていたが、表情には出さないよう努めた。「これからは、チームを率いる立場になる。責任は重くなるが、君なら大丈夫だろう」 村田部長が付け加えた。「期待しているぞ、黒川」 会議室を出た涼介の足取りは、少し宙に浮いたようだった。 昇進。課長代理。 かつての自分なら、考えられなかったことだ。成果を出しても「黒川は冷静だから」で片付けられていた。手柄は同僚に奪われ、「便利な人材」として使われるだけだった。 だが今は違う。 自分の実力が正当に評価された。自分の存在が認められた。 席に戻ると、山下が意味ありげな目で涼介を見た。「で、どうだった?」「……昇進だ。課長代理」「マジか! やるじゃん、黒川!」 山下が涼介の背中を叩いた。「シンガポールでの成果、ちゃんと評価されたんだな。良かったじゃん」「……ああ」「今夜、祝杯あげないとな。奏さんも誘って、三人で飲もうぜ」「いや、今日は奏と二人で……」「おっと、そうだな。邪魔しちゃ悪いか。じゃあ、週末にでも」 山下がにやにやと笑う。涼介は少し照れながら、「考えておく」とだけ
一 新しい朝 目を覚ますと、隣に奏がいた。 その事実だけで、涼介の胸は静かに温かくなる。 窓から差し込む朝の光が、奏の焦げ茶色の髪をやわらかく照らしていた。少し長めの前髪は額にかかり、寝息とともにかすかに揺れている。奏は中性的で繊細な顔立ちだ。長い睫毛が影を落とし、薄い唇はわずかに開いている。 一年前、シンガポールへ発つ前に交わした約束。帰ってきたら一緒に暮らそう――その言葉が、今こうして現実になっていた。 涼介は身動きせず、奏の寝顔を見つめる。 配信者「KANA」として多くのリスナーを魅了した奏の声は、今は静かだ。かつては薄い壁一枚を隔てて、涼介はその声に溺れていた。深夜、疲れ切って帰宅した涼介の耳に届いた、低く甘い囁き。その声に、涼介は人生で初めて誰かを本気で求めた。 あれから二年以上が経つ。 二人の関係は、壁越しの秘密から始まり、恋人になった。一年間の遠距離を乗り越え、今はこうして同じベッドで眠っている。 帰国して二週間。二人は都心から少し離れた閑静な住宅街に、新しいマンションを借りた。2LDKの部屋は、涼介が以前一人で住んでいた1LDKとは比べものにならないほど広い。リビングには奏の仕事用の機材が置かれ、寝室には大きなダブルベッドがある。 もう、壁越しじゃない。 その言葉が、涼介の中で何度も響く。今は毎朝、目覚めとともに奏の顔を見ることができる。毎晩、同じ布団で眠ることができる。それがどれほど幸せなことかを、涼介は噛みしめていた。 一年という月日は、二人に変化をもたらした。 奏は配信活動をやめ、本名で音声制作会社を立ち上げた。最初は小さな仕事ばかりだったが、奏の才能と誠実な仕事ぶりが評価され、少しずつクライアントが増えていった。企業のナレーション、CMの声、オーディオブックの朗読。奏の声は、さまざまな形で世の中に届けられるようになっていた。 涼介がシンガポールにいる間も、毎日音声ファイルを送り合っていた。
シンガポールの朝は、東京よりも早く明ける。 涼介が目を覚ましたのは午前六時だった。カーテンの隙間から差し込む光が、薄暗い部屋をぼんやりと照らしている。熱帯特有の湿気が肌にまとわりつき、エアコンの低い駆動音だけが静かに響いていた。 涼介はベッドの上で体を起こし、枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばした。画面をタップすると、新着メッセージの通知が表示される。 送信者は、奏だった。 涼介の胸が、自然と温かくなった。毎朝、必ず届くメッセージ。それが、涼介の一日の始まりになっていた。 音声ファイルが添付されている。涼介はイヤホンを耳に差し込み、再生ボタンを押した。『おはよう、涼介。今日も一日、頑張ってね』 奏の声が、涼介の鼓膜を震わせた。低く甘く、まるで耳の奥を直接撫でられているような声だった。その声を聴いた瞬間、涼介の全身が反応する。心臓が跳ね、呼吸が深くなり、体の奥から温もりが広がっていく。 十一か月経っても、奏の声への感度は変わらない。むしろ、離れている分だけ、余計に敏感になっている気がした。『こっちは少しずつ涼しくなってきたよ。朝晩は肌寒いくらい。涼介のいるシンガポールは、まだ暑いんだよね。体調、崩さないでね』 奏の声には、涼介を案じる優しさが滲んでいた。その声を聴くだけで、涼介は奏のそばにいるような気持ちになれる。『今日、新しい仕事の打ち合わせがあるんだ。ちゃんと報告するね。涼介も、今日の会議、頑張って。僕は涼介のこと、誰よりも信じてるから』 メッセージは、短い沈黙の後に続いた。奏の息遣いが、イヤホン越しに聞こえた。その音だけで、涼介の胸が締め付けられた。『愛してる、涼介。早く会いたい……君の声が聴きたい』 その言葉で、音声は終わった。 涼介はイヤホンを外し、天井を見上げた。奏の声が、まだ耳の奥に残っている。その余韻を噛みしめながら、涼介は小さく笑った。 あと少しだ。あと少しで、奏に会える。 シンガポールに来て、十一か月が経っていた。 去年の十月、
赴任前日の夜。 涼介と奏は、涼介の部屋で最後の夜を過ごしていた。 明日の朝、涼介は成田空港へ向かい、そこからシンガポールへ飛ぶ。一年間、日本には戻れない。 その事実が、二人の間に重く横たわっていた。部屋の空気まで、いつもより重く感じられる。 夕食を終えた後、二人はソファに並んで座っていた。テレビはついていたが、二人とも画面を見ていなかった。テレビの音だけが、部屋に響いている。「涼介」「ん?」「明日から、一年間……」「ああ」「長いね」「……長いな」 沈黙が流れた。 言葉にしてしまうと、現実がいっそう重くのしかかってくる。一年間という時間の重さが、二人の肩にのしかかっていた。三百六十五日。その間、二人は離れ離れになる。「涼介、約束して」 奏が涼介の手を取った。奏の手が、少しだけ震えている。「必ず、帰ってきて」「約束する。必ず帰ってくる」「毎日、連絡して」「するよ。毎日、奏の声を聴きたい」「僕も。涼介の声、毎日聴きたい」 奏の目に、涙が滲んでいた。涼介も、目頭が熱くなるのを感じた。泣くまいと思っていたのに、涙が勝手にこぼれそうになる。「奏、泣くなよ」「泣いてないよ」「嘘つけ」「涼介こそ、泣きそうな顔してる」「泣いてない」 二人は顔を見合わせて、苦笑した。どちらも、泣きそうな顔をしていた。「涼介」「ん?」「最後の夜……一緒にいてくれる?」 奏の声が、甘く震えた。その声には、懇願が込められていた。甘い囁きが涼介の鼓膜を震わせる。その声を聴くだけで、涼介の全身が反応してしまう。「当たり前だ。今夜は、どこにも行かない」 涼介は奏を引き寄せた。奏の体が、涼介の腕の中に収まる。互いの体温が、
梅雨入りが発表されてから、一週間が経った。 六月の東京は、どんよりとした雲に覆われる日が多くなった。朝起きた時は晴れていても、夕方には雨が降り出す。そんな不安定な天気が続いていた。 涼介と奏は、あれから何度か食事を共にしていた。奏の部屋で夕食を食べることもあれば、近くのファミレスで一緒にランチをすることもある。ごく自然に、二人の距離は縮まっていった。 しかし涼介は、それ以上踏み込めずにいた。 奏は優しい。いつも笑顔で、涼介の話に耳を傾けてくれる。一緒にいると心地よくて、時間があっという間に過ぎる。 けれど、
異変が起きたのは、二日後の月曜日の夜だった。 涼介はいつものように残業を終え、マンションに帰ってきた。時計を見ると、午後十時を少し回っていた。今夜は比較的早く帰れた方だった。週末のデートの余韻がまだ残っていて、涼介の心は穏やかだった。水族館で見たクラゲの映像が、まだ瞼の裏に浮かんでいる。 奏にメッセージを送ろうとスマートフォンを取り出した時、画面に大量の通知が表示されていることに気づいた。 SNSの通知だった。 涼介はほとんどSNSを使わない。アカウントは持っているが、閲覧専門で、投稿することはほとんどなかった。だから、こ
赴任の返事をしてから、涼介は自分の様子がおかしくなっていることを自覚していた。 奏と一緒にいる時も、どこか上の空になってしまう。会話をしていても、反応が遅れる。笑おうとしても、顔の筋肉がうまく動かない。奏と目を合わせようとしても、罪悪感で視線を逸らしてしまう。 そして、奏も涼介の変化に気づいているようだった。 奏の態度が、少しずつ変わってきている。涼介を見る目には、以前にはなかった不安の色が滲んでいる。涼介が何か言おうとすると、奏は身構えるような表情をする。何か悪い知らせを待っているかのように、怯えた目で涼介を見つめる。
雨の夜から、一週間が経った。 涼介と奏の距離は、更に近づいていた。 週末には一緒に買い物に出かけた。駅前のスーパーで食材を選び、そのあと奏の部屋で一緒に料理を作った。涼介は料理が得意ではなかったが、奏が横で丁寧に教えてくれた。「包丁はこうやって持つといいよ。指を切らないように」 奏が涼介の手を取り、包丁の握り方を直す。その手の温もりに、涼介の心臓が跳ねた。細い指が、涼介の指に重なる。その感触が、涼介の神経を刺激した。「力を入れすぎないで。野菜は押すんじゃなくて、引いて切るの」 奏の声が、耳元